「合意」がないときに、「コーチング」はしちゃいけないんだよ
今回の記事は、二十数年前のぼくの失敗談です。
でも、この失敗が、今でもぼくを支えてくれているんですね。
自戒の意味も込めて、残しておこうと思います。
二十数年前、ぼくは、当時はまだ新しかった「コーチング」というコミュニケーションを学んでいました。
アメリカから来た体系化されたコーチングは、日本ではまずはビジネスの世界で形になっていきました。
そして、多くの会社で成果を出しはじめていたところだったんですね。
ぼくも当時勤めていた学習塾で、コーチングの手法を学び、その斬新さに驚いたのをよく覚えています。
目から鱗、とはこのことでした。
「承認(相手を認めること)
「傾聴(頷きながら、丁寧に話を聴くこと)」
「質問(相手の視点を変える問いをすること)」
それらをコミュニケーションの中で使っていくのが、コーチングだと、当時のぼくは思っていました。
実際に学習塾の子どもたちとも、コーチングを使ったコミュニケーションをしてみました。
「次のテストでは、何点取りたい?」
「いい目標だね!そのために、できることを書き出してみようか」
「はじめの一歩として、家では何から始める?」
このような感じでした。
そして、コーチングによって、定期テストで100点一気に上げる子や、模試で数ヶ月で合格圏内に入る子が続出しました。
コーチングの可能性に、ぼくは心酔(盲信)していたのだと思います。
そんな中のある日、当時中学2年生だったMちゃんとのコミュニケーションの中で、コーチングに対する考え方が崩れさることになります。
Mちゃんは、女子バスケ部のエースで、とてもハキハキしている子でした。
いつも元気に笑っていて、嫌なことは嫌、とはっきり言える。
そして、学習塾でも「勉強は、他の講師ではなく、白根さんから教えてもらう」ということさえもはっきり言っていました。
Mちゃんは、志望校はまだ難しい成績でしたが、「がんばるぞ!」とやる気にあふれていたんですね。
白根:
「Mちゃん、いきたい高校、決まったんだってね!」
Mちゃん:
「そうそう!高校がバスケが強いから、絶対いきたい」
白根:
「そっか。模試とかでは何点取りたい?」
Mちゃん:
「・・・う〜ん、よくわかんない」
Mちゃんのトーンが下がります。
白根:
「どの教科からやりたい、とかある?」
Mちゃん:
「別にないけど・・・」
表情が曇っていきます。
白根:
「じゃあ、今日は何から勉強しよっか?」
Mちゃんは、ぼくを見て、はじめは言いにくそうにしていましたが、意を決したように言います。
Mちゃん:
「白根さん、その言い方、なんかヤダ」
白根:
「えっ・・・」
Mちゃん:
「なんかいっぱい質問して、勉強しなきゃ、みたいな感じになるの。いっしょに考えたい」
ぼくは、ガツン!と頭を殴られたような衝撃を受けました。
コーチングによって多くの塾生が成果を作っていく中、その手法に溺れ、調子に乗っていたのだと思います。
コーチと、コーチングされる側になってしまっていること。対等じゃないこと。そして、そのことをMちゃんが求めていないこと。
ぼくが一番嫌っていたはずの在り方を、自分自身がしていました。
そして、Mちゃんからの「わたしは、白根さんといっしょに考えていきたいんだ」という言葉が、トドメでしたね。
ぼくがいちばん大切にしていきたかったことって、それじゃん。
何やってんだよ・・・
ぼくにコーチングという手法ではなく、「在り方」の大切さを教えてくれたのは、中学2年生のMちゃんでした。
それから、ぼくは対等に目線を合わせて話せる「対話」というものに心惹かれていくことになります。
Mちゃんは、それからも変わることなく、ぼくと「対話」をしながら、勉強を続けました。
「いっしょに勉強することが楽しい」
Mちゃんは、その後、コツコツと成績を伸ばし、志望校にも合格しました。
ぼくに本当の意味でのコーチングを教えてくれたMちゃんは、その後、四国で保育士になったそうです。
Mちゃんのお母さんから「あの子も結婚してお母さんになったんですよ〜」と報告を受けて、ふと当時を思い出しました。
コーチングは、1つの手法でしかない。
そして、「合意」がないときに、「コーチング」なんて必要ない。
その想いが、ぼくの胸にはあります。